なぜか個人的に毎年恒例になっているのですが、今年も新聞掲載の大学入学共通テストを解いてみました。解答したのは「歴史総合・世界史探究」「歴史総合・日本史探究」、それと国語の中の漢文です。去年と同じですが、今年から世界史と日本史の科目名が変わっています。浪人生のために旧「世界史」「日本史」も出題されているそうで、両者の出題内容の違いを比較してみたい気もしますが、旧「世界史」「日本史」は新聞に掲載されていないので無理ですね。


さて、ノー勉おじさんの今年の採点結果はいかに?


世界史探究が96点、日本史探究が85点、漢文が満点です。

世界史はあと一問で満点を逸しました。間違ったのはこの一問です。

「バンコクと都市 [ ア ] は、国際都市でもあり、一方は、インドシナ戦争の休戦協定締結の会場となり、他方は、第二次世界大戦中に、対日処理方針を議論した会談の会場となった」

[ ア ] はカイロであることが、前の設問で明らかになっているので、「第二次世界大戦中に、対日処理方針を議論した会談の会場となった」という説明は正しい(カイロ会談)のですが、前半のバンコクの説明が明らかに間違っています(インドシナ戦争の休戦協定が締結されたのはジュネーブ)が、なぜか完全に見落としてしまいました。所詮遊びとはいえ、注意不足で満点を逃したのはもったいないことでした。

日本史のほうは普通にあちこち間違えましたが、8割とれたので十分でしょう。

世界史・日本史とも、設問の内容は近年の傾向通りで、身に着けた知識と、提示された史料を読み解くリテラシーとを組み合わせることで解答が導けるように作られていました。個別の選択肢単位では、知識の有無に関係なく史料の内容(数字の大小など)を理解さえすれば正誤を判断できるものもありましたが、それだけでは設問全体に正答することはできないようになっているので、知識不要で得点できるわけではありません。科目名が「探究」になりましたが、探究にも知識は不可欠ですから当然のことではあります。孔子も言う通り「学びて思はざれば則ち罔し(くらし)、思ひて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」です。

さて、漢文は、その孔子と弟子の子貢との会話を起点にして、皆川淇園の学問論、田中履堂の読書論を取り上げ、それら相互の関係を踏まえて内容を読み解く問題でした。漢文については勝手に満点をノルマにしているので、今年もノルマをクリアできてよかったです。せっかくなので、今年の問題文も訳しておきます。

『論語』(衛霊公第十五)

子曰「賜也、女以予為多学而識之者与」対曰「然。非与」曰「非也。予一以貫之」

子曰く「賜や、女(なんじ) 予を以て多く学びて之を識る者と為すか」と。対(こた)へて曰く「然(しか)り。非なるか」と。曰く「非なり。予は 一 以て之を貫く」と。

訳:先生(孔子)がおっしゃるには「賜(子貢)よ、そなたは私のことを、たくさんのことを学んで知っている人間だと思っているのか」と。子貢が答えて言うには「そうです。違うのですか?」と。先生はおっしゃった、「違う。私はむしろ一つのことだけを貫いているのだ」と。

皆川淇園『論語繹解』

夫子蓋常聞子貢称夫子之言、似為多学諸経、又能強記識其文、因以得成其徳者。是故夫子擬言其意、以訊之也。「曰『非也。予一以貫之』」者、言学問之法、不可貪多務博、龐雑冗乱、反闇其智、唯得一要道主之。

夫子は蓋し常に子貢の夫子を称するの言を聞き、多く諸経を学び、又た能く強記して其の文を識り、因りて以て其の徳を成すを得たる者と為すに似たり。是の故に夫子は其の意を擬言して、以て之を訊くなり。「曰く『非なり。予は一以て之を貫く』」なる者は、言ふこころは学問の法、多を貪り博に務め、龐雑冗乱にして、反って其の智を闇(くら)くするべからずして、唯だ一要道を得て之を主とするのみと。

訳:孔子はおそらく子貢が自分をほめたたえる言葉をいつも聞いていたのだろうが、どうも子貢は、孔子はたくさんの経典を学んで、さらにしっかり覚えてその文を頭に入れることができたので、それによって人格を形成することができたのだと思っているらしかった。そこで孔子は子貢の考えを推し量ってこの質問をしたのだ。「『違う。私はむしろ一つのことだけを貫いているのだ』とおっしゃった」というのは、学問のやり方は、たくさんのことをむやみに学んで知識を広げることばかりに励み、雑然としてまとまりがなくなって、かえって知力を劣化させるべきではなく、ただ一つの重要な道を見出してそれを中心にしてやるだけでよい、という意味である。

田中履堂『学資談』

淇園先師毎謂読書「日読了数紙、不如日知得数字。此似迂回、還甚便捷」余因又云「粗渉万巻、不如精通一巻。此似狭隘、亦実博達」世謂多読書者、以為博学、輒欽羨之。不知是此多識、不可謂博。博者莫所不通達之謂、精通一書亦可称博学。

淇園先師は毎に書を読むを謂ふ「日に数紙を読了するは、日に数字を知り得たるに如かず。此れ迂回に似て、還って甚だ便捷なり」と。余は因りて又た云ふ「万巻を粗渉するは、一巻に精通するに如かず。此れ狭隘に似て、亦た実に博達なり」と。世に多く書を読む者を謂ひて、以て博学と為し、輒(すなは)ち之を欽羨す。是れ此れは多識なるも、博と謂ふべからざるを知らず。博なる者は通達せざる所莫きの謂なれば、一書に精通するも亦た博学と称すべし。

訳:亡き淇園先生はつねづね読書についてこう言っておられた。「一日に数ページ読み終えるのは、一日に数文字を知り得るのに及ばない。後者は遠回りしているように見えて、逆に早道なのである」と。そこで私はさらにこう言っている。「万巻の書に大雑把に目を通すのは、一巻の書に精通するのに及ばない。後者は狭く限られているように見えて実はこれもまた広く通じているのである」と。世の中ではたくさんの本を読む者のことを博学とみなし、そういう人を羨みあこがれている。そういう人は多識ではあっても博学と呼ぶべきではないのだということを知らないのだ。「博」というのは物事に通じわからないことがないという意味だから、一冊の本に精通しているのもまた博学と呼ぶことができるのである。

折しも今はAI時代、知識の広さと量ではもはや人間はAIに勝てそうになく、「多識」はAIに任せ、人間には知識の質、思考の深さが求められることになります。知識の広さより深さが大事だ、というまるでAI時代を予見したかのような議論が、江戸時代に漢文でなされていたのだということを受験生たちに、ひいては世間の人々に知ってもらいたい―と出題者が考えたかどうかはわかりませんが、個人的にはとても興味深い題材選択だと思いました。

なお、皆川淇園については、その著書『虚字解』のPDFを汎兮堂ライブラリで公開しています。

『虚字解』(上) 皆川淇園 著

『虚字解』(下) 皆川淇園 著